■わが家のルーツ
私は釣り好き家系の3代目。
初代は、明治5年に関東のとある漁師町に生まれた。
網元の家だったらしい。
が、よくある話で妻妾同居で、
こんな場合、辛い立場にあるのは正妻の方だ。
で、初代は母親を連れて家を出奔。
箱根を越えて遠州に住み着き、紺屋を営んだ。
屋号は相模屋。
私が物心ついた頃は縁側で日向ぼっこしていた。
温和な人で声をあらげたことは記憶にない。
が 、背中には刺青があって、若き日の波乱を偲ばせた。
その連れ合いは三河の人で十八貫という大きな人。
ゆえあって、私はこの人の大きな乳にぶら下がって育った。
バアちゃんっ子は三文安い、それである。
で、この初代。
水溜まりがあれば竿を出すという無類の釣り好き。
幼心にも着流しに竿1本抱えて歩いていく姿はかっこいいと思った。
一緒に釣りをした記憶が少ないのは、私が幼かったからだろうか。
後年、2代目が、こうと述懐したのを覚えている。
「フナやハヤ、釣らせたらあの人の方がうまかったかもしれない」
釣りよりも好きなのが酒。
3度の飯にも茶碗一杯を呑んでいたが、その合間にも盗み酒をした。
「ジイちゃんっ」
私が見つけて大きな声を出すと、
ばつの悪そうな顔をしてシィーと口に指を当てた。
90歳を越えたある日、寒いと布団に潜り込み、茶碗一杯の酒を呑んで、
「あァ、旨い」といい残して眠り、そのまま起きてはこなかった。
大往生であった。
■波瀾万丈の2代目
私が生まれた頃、2代目は規模の大きな工場を営んでいた。
戦争中は軍需工場で300人からの人が鉄砲の弾を造っていたらしい。
道路を挟んで向かい側がアート商会。世界のホンダはこの地で産声を上げた。
で、この頃、ポンポンといわれた初期のオートバイを試作している段階だった。
すぐ裏手が花柳街、夜な夜な本田さんと2代目が出没し、悪さばかりしていたという。
ガチャ万という時代。戦後の繊維ブームだ。
この時代に織機メーカーに戻っていたから2代目の会社は景気がよかった。
世界のホンダはそれから20年後の話。
2代目の別荘が浜名湖の弁天島のどこかにあった。
私はここに行くのが苦手。釣りに出るのはうれしいが、船酔いするからだ
早く帰りたい」とわめく私に、
「二度と連れてこないぞ」といいながら、いつも連れていった。
釣りを終えると2代目や船頭さんが酒盛りを始める。
大きな声で大人たちが喚く。これが面白かった。
ボウズと頭をなぜる手の生臭さがいまも蘇ってくる。
私が小学校高学年の時、突然の引っ越し。
2代目の会社が倒産したのだ。
戦後の食料難の間でも白い飯を食べていた一家は、
余所様が米を食うようになって、狭い家で芋飯を食うことになった。
■28日目の挫折
再起をかけた2代目の奔走が始まる。
が、あり余る暇があったらしい。
あるいは心の憂さを晴らしていたのかもしれない。
前にも増して釣りに行く。
道具は一流だった。竿師の銘が入った和竿が束になっていた。
これに網をつけてセミ捕りをしたのが3代目、つまり私。
やがて方向を見いだした2代目がバリバリと仕事を始めた。
10年ばかり、釣りのブランクが生まれる。
3代目は学校をやめたり、また行ったり、釣りどころではなかった。
糸が切れた風船のように、
飛んで行ったままの3代目が家に呼び戻されたのが23歳。
その年に所帯をもち、貧乏暮らしが始まる。
2代目が仕事を離れたのは69歳。さあ、釣りにいくぞ、と宣言した。
くる日もくる日も竿を担いで出ていく。
10日、20日と続き、28日目の小雨の日に挫折した。
考えてみれば毎日いけるんだからな、が挫折の弁。
同じ年、酒に爛れた胃を摘出したが、40日目には釣りに行っていた。
晴釣雨読は90歳まで続いた。
■4代目確保作戦
3代目の釣り一代記は百話のうち。
ただ、4代目は女の子。それもやっとできた一粒種。
これでは、釣り好き3代もここで途切れてしまう。
そこで深謀遠慮の作戦をたてた。
釣ってきた魚を腕によりをかけて料理する。
おいちいね........ といえば、
「そうだろう、そうだろ、釣りの嫌いなお婿さんだと食べられないよ」
これを物心ついた頃からしつこく繰り返し、彼女の頭の中にインプットする。
やがて、その日がきた。釣りは好きか、はい。これで決まった。
嫁ぐ日。私は行きます。
でも、おいしい魚を食べに戻ります、と泣かせるセリフ。
寂しさは別として、長い年月かけた作戦は成功したわな、ふ、ふ、ふ。
と、平静を装いつつ腹の中で笑う3代目であった。
が、歴史は繰り返す。
5代目は女の子2人で、4代目が同じ作戦を展開中。
さァ、果たして成功するかどうか。