初代は、明治5年に関東のとある漁師町に生まれた。
網元の家だったらしい。
こんな場合、辛い立場にあるのは正妻の方だ。
で、初代は母親を連れて家を出奔。
屋号は相模屋。
私が物心ついた頃は縁側で日向ぼっこしていた。
が 、背中には刺青があって、若き日の波乱を偲ばせた。
その連れ合いは三河の人で十八貫という大きな人。
ゆえあって、私はこの人の大きな乳にぶら下がって育った。
バアちゃんっ子は三文安い、それである。
水溜まりがあれば竿を出すという無類の釣り好き。
幼心にも着流しに竿1本抱えて歩いていく姿はかっこいいと思った。
一緒に釣りをした記憶が少ないのは、私が幼かったからだろうか。
「フナやハヤ、釣らせたらあの人の方がうまかったかもしれない」
釣りよりも好きなのが酒。
3度の飯にも茶碗一杯を呑んでいたが、その合間にも盗み酒をした。
私が見つけて大きな声を出すと、
ばつの悪そうな顔をしてシィーと口に指を当てた。
「あァ、旨い」といい残して眠り、そのまま起きてはこなかった。
大往生であった。
戦争中は軍需工場で300人からの人が鉄砲の弾を造っていたらしい。
道路を挟んで向かい側がアート商会。世界のホンダはこの地で産声を上げた。
すぐ裏手が花柳街、夜な夜な本田さんと2代目が出没し、悪さばかりしていたという。
ガチャ万という時代。戦後の繊維ブームだ。
世界のホンダはそれから20年後の話。
私はここに行くのが苦手。釣りに出るのはうれしいが、船酔いするからだ
早く帰りたい」とわめく私に、
「二度と連れてこないぞ」といいながら、いつも連れていった。
大きな声で大人たちが喚く。これが面白かった。
ボウズと頭をなぜる手の生臭さがいまも蘇ってくる。
2代目の会社が倒産したのだ。
戦後の食料難の間でも白い飯を食べていた一家は、
余所様が米を食うようになって、狭い家で芋飯を食うことになった。
が、あり余る暇があったらしい。
あるいは心の憂さを晴らしていたのかもしれない。
道具は一流だった。竿師の銘が入った和竿が束になっていた。
これに網をつけてセミ捕りをしたのが3代目、つまり私。
10年ばかり、釣りのブランクが生まれる。
3代目は学校をやめたり、また行ったり、釣りどころではなかった。
飛んで行ったままの3代目が家に呼び戻されたのが23歳。
その年に所帯をもち、貧乏暮らしが始まる。
くる日もくる日も竿を担いで出ていく。
10日、20日と続き、28日目の小雨の日に挫折した。
同じ年、酒に爛れた胃を摘出したが、40日目には釣りに行っていた。
晴釣雨読は90歳まで続いた。
ただ、4代目は女の子。それもやっとできた一粒種。
これでは、釣り好き3代もここで途切れてしまう。
そこで深謀遠慮の作戦をたてた。
釣ってきた魚を腕によりをかけて料理する。
「そうだろう、そうだろ、釣りの嫌いなお婿さんだと食べられないよ」
これを物心ついた頃からしつこく繰り返し、彼女の頭の中にインプットする。
やがて、その日がきた。釣りは好きか、はい。これで決まった。
でも、おいしい魚を食べに戻ります、と泣かせるセリフ。
寂しさは別として、長い年月かけた作戦は成功したわな、ふ、ふ、ふ。
と、平静を装いつつ腹の中で笑う3代目であった。
5代目は女の子2人で、4代目が同じ作戦を展開中。
さァ、果たして成功するかどうか。
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