■顔見て大泣き
行ってやりたい。でも、行くのがつらい。
彼が倒れたとの知らせを受けたとき、
昏睡状態にある病室にとうとう行けなかった。
あいつが病魔と闘っている、その顔を見るのがつらい。
人の謗りを受けようとも、私は自分の気持ちを貫いた。
たった2日で彼は旅発った。
大勢の釣り仲間が別れにきてくれた。
そのざわめきが消えたとき、
暗闇の中に佇んでいた私は初めて彼の前に座った。
眠っているような、安らかな顔。
意外なことに、頭の中には何も浮かんでこなかった。
そのかわり、胸の奥の方から熱いものが込み上げ、
やがて、それは嗚咽となって口から迸りでた。
頭の中はカラッポなのに、込み上げてくるものは、
2人で限りなく見てきた波のように果てしなく続いた。
48歳、早すぎる別れであった。
■東京駅とブクブク
木更津堤での「全日本クロダイ釣り選手権」に、
参加する彼を東京駅まで迎えに行く。
仕事で、釣りで、全国を股にかける彼が意外なことをいったのだ。
「オレ、新婚旅行しか新幹線に乗ったことがないんだ」
受話器の向こうで、声を落としていった。
よし、分かった、迎えに行くよ。
改札口の前に、釣り服姿の彼がいた。
確かに八重洲口にはそぐわない格好ではあったが、
彼が行き交う人の視線を浴びていたのは、ほかにも理由がある。
手にしたエサ入れからブーン、ブクブクとモーターの音。
勝負を賭けた彼は、浜名湖のサイマキを新幹線で運んでいたのだ。
私の顔を見てニッと笑った顔がいまも浮かぶ。
木更津堤に試合開始のホイッスルが鳴った。
彼はサイマキの前打ちで先端に向かって進んでいく。
反対側で早くも釣果が出た。私は仕事、カメラを小脇に堤防を飛ぶ。
5枚ほどシャッター切って振り向くと、テレビクルーが走る。
その先に竿を満月に絞った彼の姿。私も走る。
と、半分も行かないうち、彼の竿の緊張が解かれた。
あァー、嘆息とともに取材陣の足が止まった。
彼のそばに寄る。

「らしくもない、どうしたの」
「ン…」
ハリスを1号にしたという。
前夜のほかの選手の話に惑わされたのだ。
サイマキで豪快にとの作戦が貫けなかった。
まだ時間はある。いつも通り2号でいけ。
彼の目に輝きが蘇った。
が、サイマキにはそれきりアタリがなかった。
■本流の壁攻め

南伊豆は伊浜港から出船して、舳先を南に取る。
やがて大きな島が見えてくる。宇留井島だ。
その沖向きにチョボッとあるイソをハサミ磯という。
真ん中に溝があって、握りバサミに形が似ている。
大晦日の釣行だった。水温20℃、この時期にしては、なんという高水温。
磯決めのジャンケン。負けた。
彼に優先権がある。左向きのサラシを取られた。
私は右向きの小さなサラシを釣り座とする。30分ほどコマセ打ち。
彼の前のサラシの先に本流の潮目、その境に木っ端メジナのナブラ。
最近には珍しく、海面で飛び撥ねていた。
サラシ前で30cmちょいが入れ食い。
私ではない。彼の方にだ。
1時間が経過。私は真ん丸オデコ。こっちへこいよ、という。
行かない。意地を張る。
その代わりに潜りウキに換えて、彼が横向いた隙にサラシの前に投げ入れ、
どんどんと糸を送る。本流の壁に沿って右、すなわち私の前にくる。
途端に竿先へグンッとアタリ。合わせた。感触ではカタがいい。
さらに右の岩陰で取り込む。40cmにほんの少し足りないサイズ。
メジナもこのサイズになるとよく引く。
彼はサラシ前で放流サイズを釣っては放し、釣っては放し。
ハリを外す間に私が仕掛けを入れる。
「おい、オジさんっ」
お互いにオジさんだから、お互いをそう呼び合う。
5匹ほど、その戦法で釣ったら気が付いた。ふっふっふ。
■隣のポイント攻め
南伊豆外浦の大きな湾を出ると、一番沖にあるのが根島。
ここに乗れなきゃ、外浦にくることはない、という好ポイントだ。
その本場に彼と並んで竿を出す。
その日は裏潮だった。
本場の竿下はトロリとも潮が動かず、木っ端ひとつもエサを追わない。
潮目は島の右端をかすめ、30mほど沖を湾曲して流れ、
再び左端のハナレをかすめる。彼がこの潮目を攻め始めた。
私は竿下の壁際にこだわる。
この壁のオーバーハングの下に居着きの怪物がいる。 
エサ盗りもなしで2時間。
突然、その時がやってきた。スーと静かにウキが沈む。
デカモノは慌ててエサを食わない。
尊大に、かつ冷静にエサを食う。
合わせた。予想を超えた引きだった。

曲がった竿先が水面に突き刺さる。耐える。隙があれば巻く。
「ウキが出た。もう一息っ」と彼の檄が飛んだ。
オーバーハングから魚体が出た。真っ黒な居着きのモンスター。
明るい所に引っ張りだされたヤツが最後の抵抗を試みる。
パチッ。水面から飛び出た仕掛けが竿に絡みつく。
ハリが延びていた。その瞬間、私の後頭部に彼の平手がピシャリ。
「オジさんっのバカッ」
ここまできてなぜバラすんだ。その言葉より先に手が出たのだ。
その後で彼の攻めが完成。本流にウキを沈めて送り込んで行く。
最後は隣のポイントの足元を釣る。隣の釣り人は本流の沖を攻めていた。
ウマズラを3つほど釣った後、彼の竿が尋常ではない唸り声を上げた。
ノサれる。魚がハナレの足元を向こうにまわった。所詮ムリだ。
ゴリ、ゴリ。
道糸が岩に擦れる音を聞いた。
パチッ。
今度は私のいう番。
「オジさんっのバカッ」
翔鱗会初代会長の福田和巳君。
時の流れは、胸にぽっかり開いた穴を次第に狭くしていく。
が、君との思い出を私は書き続けていこう。
君がいつまでも私の心に住んでくれるように。
わが友よ、安らかに。