■テレビ出演で主役張る
わが釣り好き2代目に、3代目の私がどうしても勝てなかったものがある。
2代目は、テレビの釣り番組に主役で出たことがあるのだ。しかも、2回。
番組は東京12チャンネル、「我ら釣り天狗」。
私もニギヤカシ、つまり、周辺で竿だしている背景で出ているが、
画面に出たのはたったの20秒。
竿振り込んで、手洗ったきり。が、このビデオ、いまでもよく観る。
実は同じテープにタイガース優勝の軌跡が入っているのだ。
先代を偲び、タイガースの優勝を偲び、私は感涙にむせぶ?
そもそも、当時の佐鳴湖は、
染の全国ワースト5の上位に定席を持っていた。
ところが、その透明度の低さが、ウナギの昼釣りを可能にし、
3日とあけず船を漕ぎ出す2代目に出演交渉がきたのだ。
1回目の放映のあと、東京、大阪から釣り客がどっと押しかけ、
にわかに佐鳴湖は全国区になった。
同じ頃、私が師と仰ぐ全磯連静岡県支部の松木渡支部長が、
最初の手術を終え、2代目の漕ぐ船にいつも座っていたのだが、
このくだりは章を改めたい。
で、2代目は一躍スターとなった。
名人の出る日に行きたい、こんな電話に、
明治生まれの気骨が馴染むはずもないのだ。
小薮からでて入野まで漕いで逃げる。
で、お客さん、追い切れずにハリの付いたウナギを売ってくれと迫る。
自分は食ベないのだから、と差し上げる。
で、ますます人気がでて、
2代目、ワシの最後の楽しみ奪うなよ…と本気で悩んでた。
この時、2代目は78歳。
■母親の羽織
1日に50匹から60匹のウナギを釣ってきた。
これを自分でさばき、白焼きにして他所にあげる。
養殖ウナギが出荷されるサイズになるのに、
天然物は7年かかるのだそうな。
太さは同じでも、体長が短い。寸の詰まったのが天然ウナギ。
なにせ、ワースト上位の佐鳴湖産。
2代目は釣り場所をいって、差し上げていた。
承知で食べれば旨いのは当然。そのうちファンがついた。
次は、いつ、いらっしゃるのと、催促がくる。
それを励みに2代目が釣りに通う。
で、時々、お返しがくる。
母親の羽織だったり、バッグだったり。
行ってくると、翌日は休養。
そのまた翌日、牛舍の堆肥でミミズを調達。
で、3日目に出船というサイクル。
霞ケ浦が釣れなくなったからだという。
浜名湖ブランドがモノをいって、
東京周辺から遥々と訪れる人が増え、ボート屋さんは家を新築した。
直接、電話のかかってきた人たちを、2代目は自分の家に泊めた。
酒酌み交わして、釣り談義して、
もしかすると幸せの絶頂だったかもしれない。
3代目の私は愚痴ひとついわない母親に、時々資金を握らせていた。
■通り雨
酒なくて何が己の、という2代目、70歳にして重度の胃潰瘍。
胃をほとんど取ってしまったが、佐鳴湖通いはやめない。
心配した母親が、私に一緒に行ってくれという。
まァ、嫌いなことでもないし、3度に1度は付き合おうかと、
付いていくのだが一緒の船に乗ったのは最初だけ。

私の漕ぐのが気にいらないのだ。
桟橋はなれてすぐに、どけッ、という。
艪を握った途端、シャンとするのをみて、余分な手はださないことにした。
が、母親は心配。仕方ないから別の船だして、遠くから見守っている。
釣り自体は面白かった。
湖内のミオを極めた2代目に付いていってポイント覚えた。
そこへウナギが回遊してくる。
2代目はリール竿5本、手竿5本を船半分に突き出す。
まさに花魁のカンザシ。
のちに庄内湖でキビレのカンザシ釣法が定着するが、
その元祖は2代目だったのだ。
で、ある日。昼前に土砂降り。おまけに強い風も吹く。
さっさと桟橋に戻った2代目を追って私も必死に艪を漕ぐ。
進まない。まるで進まない。
最後は向こう岸に流れ着いての雨宿り。
ま、置いていかれるのは子供の頃から慣れている。
30分ほどして、いままでの土砂降りが嘘のように日が差した。
で、やっとのことで桟橋にたどり着くと、お前、釣れたか。
その日はよく釣れて、内心、ひょっとしたら,
2代目を抜いたのじゃないかと思っていたくらい。
勢いよくビクを取りに戻る。
え? 船べりに吊るしたビクはなかった。
風にあおられ、湖芯でグルグルまわっているうち、ビクごとのリリース。
■釣りやめちまぇ
2代目の術後間もなく、松木さんが退院して、2人で佐鳴湖に出る。
佐鳴湖で船をどう舫うかというと、底が積もり積もった泥で錨が入れられない。
で、竹竿差して船を縛る。術後まもない2人が、移動の度に竹竿抜く。
で、松木さんが抜けない。2代目がジレる。
こんなものも抜けないのか、釣りやめちまえ........ と2代目が叱る。
いわれて松木さんが力を出す。
さすが2代目、相手が誰だろうと、意に介さないのかと思った。
が、その2年後、癌の再発で冥界に旅発たれたこと告げると、目を潤ませて、
「体力つけてもらおうと、きついこといった。そうか、逝かれたか」と、
肩をがっくりと落とした。
続いて「ワシも佐鳴湖やめる」。
それから2度と佐鳴湖へ船を漕ぎだすことはなかった。