この人、今切口に蛇篭が入った時からのフカセ釣り師。
手竿にバカを1ヒロ出しての道具で修業したという正統派だ。
感覚は教えて分かるもんじゃない。自分の感覚を磨け、ともいった。
浜名バイパスはなかったけれど、堤防は今と変わりがなかった。
ドボンコは主流になっていたが、その名称はなかった。
フカセのできる場所のなくなっていく寂しさからか、
師匠が呟いた「ドボンコは釣りじゃない」。
師匠はアタリを『糸が鳴く』と表現した。
耳で聞くんじゃない、感覚で聞くんだ、ともいった。
くる日もくる日も今切口に通う。
クロダイは釣るけれど、糸の鳴く瞬間はつかめない。
対岸の弁天島温泉のざわめきがやっと静かになり、
と同時に、この場所での時合も終わろうとしていた。
クロダイの動きを知ろうとする。
穂先に目を凝らすのは感覚を研ぎ澄ますため。
モヤーとした動きを聞いたような...
ハオコゼの唇の端にハリが掛かっていた。
このハオコゼで朧げながらなにかが見えてきた。
が、その前の段階で捉える域に達するには程遠かった。
これをサイマキで釣る。
これもエビの動きを穂先で聞く。
クロダイが寄るとエビが騒ぐのだ。腰を曲げて跳ねようとする。
だからエビの腰を折ってはならない。これは師匠の教えである。
フカセ師にとって至福の時。
次に一撃、クロダイがエビの頭を押さえる。
くわえ直して向きを変えようとする。ここだ。
手首を返して合わせ。ゴクッ。
逝ってしまったフクさんが持っている。54cm。
私は彼の記録への挑戦半ばで、あそこには行かなくなった。
あんたのいない新ドックにいくのが辛いからだ。
いつものパイル前。暗くなるのを待って竿を出す。
1時間経過、小さなカワハギのアタリが止み、底が静かになった。
シュル、シュ。確かに聞いた。
糸の鳴く音。竿先を送って5つ数える。
合わせた。一旦、素直に魚の首が付いてきた。
が、次の瞬間、岸沿いに走った。
糸を出しながら追う。44cmのクロダイだった。
で、44cmも釣った。
薄闇に目を凝らし神経を集中しなければなにも伝わってはこない。
が、しっかりとクロダイの唇にハリが刺さっていた。
声も交わせない集中治療室の中だった。
その次の春、私は今切口を離れて三軒屋に通い始めた。
そして、糸の鳴く音を2度と聞くことはなっかた。
潮の飛沫が舞い散る磯の岩礁を、
あっちこっちと釣り歩くようになった。
ますます釣りひと筋。
釣りなくて何が己の人生かと、
どっぷり首まで浸かりきって、もう身動きできない。
ぐうたらな抜け殻亭主といつも釣り後家のカミさんがいう。
だいたいが、釣り好きの家系で九十歳で逝った父親は、
最期まで釣りの話をしたがった。
この人の頭の中には釣りのことしかとどまっていなかったようだ。
戦後の混乱期にさかのぼる。
貝殻のすえた匂い、船酔いの苦しさ、それから武者震い。
三題噺のようだが、
これは小学校に入ったばかりの頃の鮮烈な記憶として、
わが釣り人生のキーワードなのである。
貝殻交じりの砂浜の向こうには裏弁天島の湖面が広がっていた。
あたり一面に貝殻の匂いが充満して、馴染みの船頭が裏木戸を押し入って来、
どこなのか記憶は定かではないが、父が別荘にいく時はいつもついていった。
そして船をだすと今切口の近くに漕ぎだす。
小1時間もしないうちに、青い顔をして「もう、帰りた~い」といいだす。
すぐに船酔いするくせに、いつもついていかなければ気がすまない。
父親も「やっかい坊主めっ」と怒るくせに毎度連れていく。
名人の作になる和竿が満月になるさまを、
「いつかボクだって」
武者震いをしながら見守ってきたのである。
釣り人生がどんなに展開していこうとも、
私の安らぎの場所であり続けるだろう。
昭和59年、T社刊、私の初単行本『浜名湖釣大全』のあとがきの抜粋。
私の素直な気持ちであり、自分でも好きな文章である。
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