天竜川を溯って水窪の街中からヒョー越を目指す。
記憶にある風景を車窓に追っていると、
急坂の果てに、突然という格好で草木トンネルが現れた。
三河の豊橋港、南信濃の精密機器、遠州の工業力を結ぶ幹線道路になるという。
もともと、この地域は《塩の道》で結ばれていた。
信州からみれば秋葉街道、遠州からは信州街道。
ただし、近年まで青崩峠を越えるR152は幻の国道。
地図を広げてみても、ここは途切れている。
道路として維持していくことができなかったからだ。
『大きな裂け目の意。中部地方で本州を横断する新第三系の地帯。
わが国の地質構造上、東北日本と西南日本を分ける重要な地帯。
富士火山帯はここを通っている。
ナウマンの命名。糸魚川はこの地帯の西縁を限る断層』
とある。
新設の三信道路はここを避けて草木トンネルを造り、ヒョー越へ抜ける。
私が遠山川のアマゴに魅せられて通っていた頃、
これを信州に下るスーパー林道ができた。
静岡県側が何回か負け、県境が南に移動しているはず。
スーパー林道を下ると右手から八重河内川が流れ込み、
青崩峠源頭からの小嵐川が併合する。
ハードな下りにはくれぐれもご用心。この八重河内、私の好きな渓であった。
堰堤上にあった東屋の屋根だけが、
土砂の中からわずかに存在を示していた光景が、忘れられない。
倒木のほんのちょっとした深みから尺アマゴが出た。
周辺の川のように渓流の相をなしていないのは、青崩源頭に端を発するからだ。
しかるに、最近は多くの渓谷が小嵐川に似た荒廃を辿る。
ここでは多くを語るまい.............
ふた昔経っても町並みは変わっていず、
立ち寄った店の『焼き豚入りそば』は意外に旨かった。
その西側の枝沢の水を集め、延々と下って時岡ダムで天竜川に合流するのが遠山川。
本谷の川幅いっぱいに恐怖を覚えるほどの流れが迸り、
一日詰めてもやっと加々良沢あたりだった。
本谷に取水堰ができ、北又沢にも幾重ものダムができた。
久々の出遭いは降雨跡とあって、往時を偲ばせる水量だったが、
渓に降りてみれば、あの淵にも、この瀬にも昔日の面影はなかった。
幾匹かのアマゴとイワナがくわえてくれた。
囲炉裏端で、串焼きの渓の精たちと手打ちの蕎麦。
三本のビール、お師匠さんたちの尽きない話、
遠山郷の夜は静かに更けていく。
遠く渓を流れる水の音。
串に通した田楽芋、民宿のオバちゃんが囲炉裏で焼いてくれた。
刻まれた皺の深さ、この渓のすべてを見てきた顔だ。
多くを語らず、山盛りの飯を勧めてくれる。
伊那谷の人情に触れていると意外に思うが、実は芯が一本通っている。
信州の俳人、小林一茶の《やせ蛙負けるな一茶ここにあり》も反骨精神を込めた句だそうな。
時の明治政府は中央集権化のために市町村合併の方針をとり、
一村一社として神社を統廃合し、鎮守の森を潰していった。
熊楠の反対の本旨は、その森に多くみられる植物群の破壊にあったが、
やがては紀州の森林濫伐指摘にも及んでいる。
民意に反して山を取り上げていった尾張藩の苛酷な森林対策、
それにも増して明治政府は官有林化を圧し進めた。
狂死する実父の島崎正樹の生涯が、主人公の青山半蔵のモデルだという。
人は古来より山とともに生き、ともに暮らしてきた。
なのに現代人は生きることを急ぎ過ぎる。
この百年余のツケが確実に現代の日本を蝕んでいるのは間違いない。
おもひでの山
おもひでの川
言うことなし
ふるさとの山はありがたきかな
ふっと私の頭に浮かんだのが、この歌であった。
杉花粉でのクシャミも、鉄砲水が多いのも、みな、明治維新にとられた施策の後遺症?
自然に手を加えることを急いではならない。そして誤りを糺すには謙虚でなければならない。
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