●今切の渡し

東海道の舞阪宿と新居宿との湖上一里は、『今切の渡し』によって結ばれていた。

新幹線の車窓から垣間見るあの景観も、当時の旅人にとっては難所でしかない。

風波に濡れるのを嫌った旅人が、
遠回りを覚悟で迂回したのが、湖奥から本坂峠を越える北街道。

あまりにも、陸路を通行する者が多く、今切の渡しが廃れてきた。

で、徳川家康が婦女子に限って北街道の通行を許した。これが姫街道の由来。

新居の関所によって、『入り鉄砲に出女』を取り締まると云う幕府の方針もあった。

が、東西に長い砂洲が浮かぶだけの今切口には、
その当時の架橋技術が及ばなかったに違いない。

ちなみに天保15年の人一人の船賃は十八文、渡船は常時八十艘が就航していたという。

弁天島は砂州にあった荒れ島で、当時は北島と呼ばれた。
年古い狐が棲みしばしば人を騙したとの伝説が残る。

橋が架けられたのは明治14年、
次いで明治22年に東海道線が開通し、
本格的な国道架橋が完成したのは大正の初期であった。

橋脚の建設には当時の最先端技術が注がれ、敷石は魚礁となって、
いまでは信じられないほどのクロダイが付いたという。

ここだけの一本釣りで漁師の生活が成り立ったというから大変なものだ。

《天の川 浜名の橋の十文字》は明治26年に浜名湖に遊んだ、正岡子規の句。

●暴れ天竜

浜名湖が釣り人天国として存在するのは、外海と通じる今切口があってこそ。

潮入り湖として広大な汽水域を有するからにほかならない。

が、近淡海(近江=琵琶湖)に対して遠淡海と呼ばれ、
浜名川が通じるのみの淡水湖の時代のほうが長かったのだ。

明応7年(1498年)の8月、大地震による津波に襲われ、
湖口を閉じていた砂州が決壊して現在の姿となる。

その後も二、三度の地震が続き、
舞沢郷の壊滅など甚大な犠牲によって現在の潮入り湖が出現した。

最初の地震は家康生誕の50年前の話である。

浜名湖の形成は溺れ谷であるという。
つまり、太古には湾であったわけで、
これを閉じて淡水湖としたのが、古天竜の運んだ砂礫。

つい近世まで磐田台地から三方原台地の間を天竜川が暴れまわっていた。

その流れの運んだ砂礫が湾の口を閉じて、淡水湖が生まれたのだ。

暴れ天竜の異名を持ち、日本三大急流の一つであった天竜川も、
今は爪を抜かれた猫、牙を抜かれた虎の如くおとなしい。

その理由として挙げられたのが、幾つかのダム。

下流域でいえば、昭和31年竣工の佐久間ダム、昭和33年竣工の秋葉ダム、
さらには船明ダムによって堰かれている。

次々とダムが完成するにつれ、河口部の波食は顕著となり、吐き出す砂礫は激減して、
自然界のバランスは見る間に崩れていく。

その対策として最初に造られたのが、松島灯台前に出現した約200mの台形堤防であった。

●三軒屋テトラ堤

現在は跡形もないこの台形堤防は昭和35年の竣工。
久間ダムの完成からわずかな年月で、護岸の必要性に迫られている。

たった5年にして中央部の決壊が始まった
。波の破壊力は1平方mあたり、最大60トンに達すると云う。

遠州灘の荒波の威力をまざまざと見せつける崩壊であった。

次に着工したのが離岸堤で、まず崩れ堤防西隣の海中に3基が投入された。

この離岸堤は効果を発揮して、砂浜が次第に復活する。

やがて、無粋なテトラポットが次々と投入され、
クロダイ天国として人気の三軒屋テトラ帯が誕生する。

東西に23基、遠州フカセ釣りの好釣り場である。
道路の西端には『波濤の詩』と刻んだ工事終了の記念碑が立てられている。

その起因も人為的なものであれば、
結果として起こった自然の脅威に立ち向かったのも人知であった。

●大地震周期説

駿河湾、遠州灘沖を震源地として、巨大地震が起きるといわれてから久しい。

この論拠は大地震周期説で、その間隔の平均は119年であると云う。

史実として残る東海道沖地震には1097年(承徳元年)、
そして今切口のできた1498年(明応7年)。

天下分け目の関ヶ原合戦から5年後の1605年(慶長9年)、
富士山の中腹が噴火した1707年(宝永4年)、

最後に安政の大地震が1854年(安政元年)であった。

この周期によれば昭和48年が119年目に当たっていたが、
何事もなく過ぎ去ってもはや25年。

いつしか地震への恐怖も風化しつつある。

昭和48年といえば、大地震でなく七夕豪雨によって大きな被害が生じている。
三軒屋の大釣り伝説が生まれたのもこのとき。

天竜川から薄濁りが長期にわたって流れでて、離岸堤では終日、連日、クロダイが釣れ盛った。

70匹も入れたスカリを担いで泳ぎ、途中で溺れかかったいう嘘のような話もある。

その頃は離岸堤まで50mばかりを、車のタイヤチューブにすがって泳いだものだった。

数もそうだが、50cmオーバーの年無しサイズも珍しくはなかった。

クロダイは2歳魚で18cm、3歳魚で22cm、4歳魚で28cmに育つ。

地域差はあるが40cmに達するには10年以上はかかる。

50cmの年無しともなれば、最低20年は生きてきた猛者のはず。

クロダイの年齢は、鱗を顕微鏡で覗くと年輪が刻み込まれている。

2歳魚であれば丸にチョン。同じように鯨は耳垢に年輪が刻まれているという。

●異文化のエゴイズム

寛政年間の紀州沖には、アメリカの捕鯨船がしばしば現れた。

すでに蒸気船であったし、鉄砲で銛を打ち込んでの大量捕獲。
その頃の紀州太地では、刺水夫が生死を賭けての鯨捕り。

包丁を口にくわえて鯨にすがり、
鼻を切って止めを刺すという勇壮な漁であった。

こうして仕留めた鯨は、髭一本すら余すところなく利用し、多くの人々を潤わせた。

しかるにアメリカの捕鯨船は、甲板の大釜でその身を煮て、鯨油だけを本国に持ち帰った。

ランプの芯油を得るためだけに日本近海に現れて、その水や食料の確保のために開国を迫ったのだ。

そして百年間が過ぎ去った。

西洋諸国は自分たちの捕鯨の歴史を忘れてしまったが如く、
強硬な捕鯨反対を唱え続ける。

種によっては増え続けているという調査捕鯨の報告書も読まず、
頑なに全面禁止を掲げる。

いくら異文化のエゴイズムとはいえおかしいではないか。

■付記

三軒屋海岸を前にする団地に24年間も住んだ。その20年間は釣り三昧。

投げ釣りからクロダイへ。三軒屋の釣りの歴史を全部みてきた。