■大名釣り

清水港のカセ釣りを「大名釣り」という。

静岡に隠居した徳川慶喜公が釣りをしたからだという説があるが、

この方は大名の上に位置する将軍であるからして、
それをルーツとするのは当たらない。

慶喜さんは意外とハイカラな人で、洒落た洋服での狩猟姿が写真に残っている。

静岡に隠居してからは、気儘な人世を楽しんだようである。

大権現家康公ともども静岡には縁が深い。

むしろ、私がとりたいのは、明治の元勲、西園寺公望公の存在である。

興津浜に坐漁荘という別荘を構え、ここに明治政府のお歴々が通ったのである。

折戸の湾に屋形船を浮かべ、三味の音を漏らしながら釣りに興じた…というほうが、

大名釣りの由来としてはおもしろいではないか。

まさに大名釣りというのが、紀州釣りのルーツである。

こちらは紀州の殿様、紀州藩十代藩主、徳川治宝公が奨励したといわれる。

文政元年、水軒御用地、養すい園に下屋敷を設けて、
鷹狩りや釣りをしたのが始まりとされる。
まさに豪華な殿様の釣りであったに違いない。


阿波藩には、殿様の釣りの段取りをする御釣番という役職があったという。

結構な禄高を得て、釣道に励んでいた。が、釣れなくて殿様の不興をかうと首が飛ぶ。

リストラどころではない。腹を切らなければならい。だから、命を懸けて釣技錬磨に励む。

無敵阿波釣法のルーツはここにあるといっていい。

私が何回も観てきた阿波の名手の技は、こうした伝統の上にあったとなれば納得である。

殿様が何かに夢中になる。たとえば碁。
下世話にいえば、負けると怒る。これは下々とて同じ。

が、権力を持った者が怒るとロクなことはない。お家騒動に発展した話がいくつかある。

阿波の御釣番は大変な職であったと思う。

●釣りは武術

庄内藩には、黒鯛のテンカラ釣りがあった。

こちらは、藩主が武道鍛錬のために奨励した、地磯での釣り。

いまの寸法でいえば、6mから7mの庄内特産苦竹のノベ竿で挑んだ。

テンカラというのは、いま、渓流釣りに残っている毛バリ釣法に通じる。

緩やかな払い出しにエサを乗せて、2mほど自然に落とし込むのだ。

長竿を振って身体を鍛錬し、なおかつ、魚との駆け引きで鋭気を養うのである。

長い竿を担ぎ、町中を闊歩する若い武士は格好がよかったに違いない。

で、江戸時代に庶民が釣りをしていたか、というと、

漁を生業とする漁師以外はまったくといってよいほど話がない。

日の出と同時に働き、日が落ちて闇になれば寝てしまうのが、普通の庶民の暮らしだった。

落語に「野ざらし」という噺がある。釣りにいくとシャレコウベがあった。

これに持参の酒を手向けると、夜になって妙齢の美女が礼をしにやってくる。

これを聞いた八つぁんが竿を振りまわす。

江戸の庶民で、昼日中から釣りなんぞをしていたのは、ロクなもんじゃなかったのだ。

が、大店のご隠居さんくらいになると、暇と金をもて余し道具に凝る。

かくして江戸後期には武士とは違う釣り文化が芽生える。

武士の鍛錬とは違い、ここには文化が生じた。

お道具を揃えていくタナゴ釣りにそれが偲ばれる。

考えてみれば、釣り気質の違いはこんなところにあったのかもしれない。

●気質の違い

いつしか、グレという呼び名が関東でも当たり前になっている。

なぜ、メジナではないのか。

久しく、メジナ釣りは西高東低といわれた。

阿波釣法を筆頭とする関西勢にかなわないのだ。

式根島に行った時、同行の松田稔さんが、口をあんぐり開けて、

「関東は、まだ、こんな釣りをするのか」といった。

それは一般的レベルではあるが、認識の甘さは否めない。

つらつら考えてみれば、関東の釣りは遊びの釣りとしての粋を尊んだ。

それは所詮、大店の旦那衆の道楽から発したものである。

江戸前の釣りだなんてのは、みんな、これだったのだ。

殿様が釣れなければ腹を切らねばならぬ…というところから発した釣りとは、違って当然。

磯釣りでも、私が入門した頃にイシダイをやらない、といえば異端児だった。

石鯛師にあらずんば…という風潮が確かにあったのだ。

わずか20年前なのだから、おって知るべし。

いま、関西の紀州釣りに対して、

関東から東北にかけてのダンゴが真っ赤であるのも、関東にこれを広めた先達の責任である。

10年経たずして、集魚ダンゴの是非が問われている。

かたや100年の歴史が培った糠ダンゴ、こちらは科学添加剤の刺激で魚を狂わす集魚ダンゴ。

結果が分からなかったというならば、

すぐさま、現状を訴える責任が関東の先達にあるはずではないか。

●日本一のロケーション

話を清水港に戻そう。

いまでも貯木場でカセ釣りをしていると、大きな貝殻にハリの掛かることがある。

実は、戦前の折戸湾は三重県に次ぐ生産量の真珠養殖地だったのだ。

綺麗な内湾に浮かぶ真珠筏、巴川の河口から松林が見えた当時の風景は忍ぶよしもない。

いまのカセ釣りのルーツはここにあるらしい。
味噌ダンゴだったという話もあるが、清水港からお茶を輸出して大豆を輸入する…

この辺りに全国でも珍しいオカラダンゴのルーツがありそうである。

三重の筏釣りは隣の和歌山、紀州釣りの流れを汲む。

清水のカセ釣りはそれよりも古いらしい。

昭和27年、地球の裏側のチリで起きた地震は、遙々と列島沿岸に大津波を送ってきた。

これが折戸湾に流れ込み、真珠養殖は壊滅してしまう。

以降は国際貿易港として、企業のクレーンが林立するに至る。

情緒のない風景の上に日本一の富士山。なんとも、ちぐはぐではあるのだが、

富士を仰いで黒鯛釣り、日本一のロケーションを誇るカセ釣り場ではある。

●遺徳を残した次郎長親分

清水湊は鬼より怖い、大政、小政の声がする。

ご存じ、清水の次郎長親分の生家は、ふじや釣船店のすぐ近くにある。

曾々孫に当たる女将が管理をしている。

が、次郎長親分、ただの博徒ではなかった。

巴川の浜に幕軍兵士の骸が放置されているのを憐れみ手厚く葬った。

勝てば官軍、誰も後難を恐れて手をつけなかったのだ。

これに感激した山岡鉄舟との出会いがあって、次郎長さんの人世は変わる。

明治のご維新、食い詰めた幕軍の武士とともに富士山麓の開墾に関わっていった。

切った張ったの渡世から見事に変身して、富士の裾野に次郎長新田の名を残した。

次郎長さんは、明治の中頃まで生きて大往生している。

子分の遠州守の石松の墓は、遠州森大洞院にある。

だいたいが、実在が疑われている人物で浪曲の産物という説もある。

石松の墓を欠いて行く人は絶えないそうで、ギャンブルのお守りになるそうだ。

創作としても、この作者、石松の人物像のなかに見事に遠州男を描いている。

お人よしで、おっちょこちょいで、あとで後悔するくせにいい格好する。

かくいう私も、その遠州男の一人。バカは死ななきゃ、治らない....... と。

■付記

雑誌連載の「釣り雑学」に加筆。100話のなかに被る部分もあるが、ご容赦。

私が石鯛師から上物に転向して20年、最近の関東も上物師が大半になった。

で、グレという呼称を平気で使うのが、関東の釣り人として、ちょっと寂しい。