■初めての感動

第35話でも書いているが、初めてトビウオを見た時は感動した。
神津島へ向かう汽船が鵜渡根を過ぎると、新島と式根島が正面に見え、
その向こうに神津島が霞んでいた。

いつものように船酔いに苦しみながら、なんとなく海面を見ていた。
すると、船のスピードに合わせるかのように何匹かの魚が並行して泳いでいた。
ふっと、突然、その1匹が海面に躍り出て、尻鰭で海面をチョンチョンと叩き、
透き通った羽を広げて滑空した。

うわ~っ、トビウオだ。
胸元まできていた船酔いを忘れ、次々に滑空するトビウオに見惚れていた。

そのあと、神津島港で渡船に乗り込み、本島の南方にある恩馳群礁に向かった。
本島を離れるに従い、海の色は黒く変わり、黒潮のまっただ中を突き進んでいった。
滑空するトビウオの数は増し、それは、自分が離島の海にいるという実感となって、
感動はさらに胸のなかの船酔いを押しのけて膨らんだ。
30年ほど前の話である。

●魚が空を飛んだ

御前崎沖堤でクロダイを釣っていた。初夏のことだったと思う。
釣れたか...は覚えていない。一気に引き込むアタリだった。
それほどの引きではなく、難なく取り込んで魚を持とうした。珍事はその時に起きた。

掴もうとした、その魚がはばたいたのだ。
遊園地のワイヤーで吊られた飛行機のように、道糸に吊られたまま竿の周りをまわる。そ
れがトビウオだと気づくまでにはしばらくの時間が必要だった。
初めて神津島でみてから、そんなに月日は経っていなかった。
トビウオを釣った...という、うれしさが込み上げてきた。

磯釣りを始めたばかり、何にでも感動する頃であった。

3匹釣って持ち帰った。カミさんに見せ、子供に見せた。
トビウオだぞ...こうして鰭を広げて飛ぶんだぞ。
それは自分の感動のお裾分けのつもりだったが、ひょっとして押しつけだったかも知れない。
喜びいさんで食べた塩焼きは、感動の締めくくりとしては期待するほどのものではなかった。

●焼津でサンマが釣れた

投げサビキ釣りの盛んな海岸がある。
三保半島の軽飛行場の下、沼津の片浜海岸がそうだ。
三保では、回遊魚の先駆けとしてトビウオが最初に姿をみせ、
ワカナゴ、ソウダガツオと続いていく。

ともに、海岸から急深である。三保は100m以内で水深50mになるという。
黒潮に乗って接岸したトビウオが、さらに分枝流を伝わって姿を見せるのだ。

沿岸の海流が活発であれば、トビウオが三保の海に飛んでも不思議はない。

が、2002年5月、焼津でサンマが釣れたとの話が飛び込んできた。
静岡県でサンマ。まったく聞かない話ではない。HGの御前崎で釣ったことはある。
が、この時期に、仕掛けの落ちないほどの大群が押し寄せた...との話は聞いたことがない。
なぜだろう...と例によって想像力を働かせてみた。

人工衛星NOAAの画像がインターネットで見られる。
毎日、ネットサーフィンの途中で覗いてみる。
もう少し知りたい時は海上保安庁の海流図を覗く。だ
いたい、リアルタイムで黒潮や沿岸の様子が分かるものだ。
で、今回のサンマである。

●サンマの謎

3月までの黒潮は四国から東海沿岸では直進傾向にあった。
勢力の増す4月中旬、遠州灘沖で蛇行が始まる。
5月に入って蛇行の最も沖合は八丈島付近だった。
急激に直進から蛇行に変わった時、黒潮流路の慣性からまっすぐ進んだ暖水の塊が、
蛇行の内側に残ることがある。実際にNOAAの画像では、高水温域が御前崎沖に認められていた。

この塊の中に、サンマの群れが取り残されたのではないか。
黒潮に乗って三陸沖へ向かう上りサンマの群れである。
4年ほど前も同じ現象があって、この時は上りカツオが取り残されている。
こう推理してみれば納得はいくのだ。
サンマに続いて早々のトビウオの群れ、何となく話の脈絡は繋がってきたではないか。

●湖面を飛ぶトビウオ

2002年6月初め、浜名湖でトビウオを見た...という話が相次いだ。
外海の接点の今切口では希に姿を見ることがある。
が、湖内の国道より上流でトビウオを見たという話は、これまで聞いたことがない。

浜名湖にトビウオ、これはまったく別の意味合いをもっている。
沖合に活発な海流が流れる海岸、こういう所でトビウオの姿を見るのは珍しくはない。
しかし、浜名湖内の下げ潮のなかにトビウオが飛んでいるのである。

つまり、浜名湖のトビウオは、湖内の塩水化の象徴ともいえるのだ。

トビウオは汽水域の湾奥まで入る魚ではないと思われる。
それが湖内に入り込み、しかも汽水の下ってくる下げ潮で確認された。
それだけ、表浜名湖の塩水化が進んだことにほかならない

。表浜名湖は、もはや外海と一緒なのだ。

豊穣の湖は汽水がもたらしたものである。20年ほど前のデータになるが、
浜名湖には360余種の魚たちが棲息していた。
これは、瀬戸内海に棲息する種の数を遙かにしのぐ。
ちょうど、外海からの潮通しがよくなり、湖内の淡水とのバランスがとれていた時代であった。

それは今切口の固定に始まる、浅海開発事業の成果であったことは間違いない。
1つの事業が成功に向かっていく...時点で、それを讃えるための調査ではなかったか。
聞くところによると、浅海開発事業が終わってからのデータは、関係役所にまったくないという。
事業が終わった時点でピリオドが打たれているのである。

だから、実体を知らない学者は20年前の知識のまま、
外海系の魚が増え、漁獲量が増したことを未だに讃える。

●豊穣の湖とは

それでは、この20年間に何があったか...である。
一つだけ致命的なことがある。浜名湖に注ぐ最大の河川、都田川にダムができた。
つまり、淡水の供給が激減したのだ。
外海の潮が以前より多く入ってくる環境になったのは間違いない。
しかし、逆の発想をすれば、淡水の供給が減ったから塩水化が進んだとも考えられる。

浜名湖が、豊穣の湖であるためには、バランスのとれた汽水域であり続けることだと思う。
汽水域にアマモが密生し、それに多くの魚たちが産卵し、育って外海へ旅立っていく。
浜名湖は魚たちの揺りかご...これは私が25年前に自著で浜名湖を讃えた言葉である。
しかるに、アマモの密生帯は急激に減り、
かわって湖底を覆い尽くすアオサがはびこっているのが現状だ。

アサリの自生する区域は汽水域を求めて、年々湖奥へと後退している。

魚たちは、そこが産卵、稚魚の育成に適さないのであれば、
その場所をライフサイクルの場所としないだけである。
すでに、浜名湖はその方向に向かっているといってよい。

●方法はある

それでは、失われていくかもしれない、豊穣の湖を救う手だてはないのだろうか。
これは恵まれている。行政が決断すればいいだけのことだ。
地元新聞の記事が引用しよう。現在、都田川の貯水利用は100%ちかくだそうである。
が、天竜川の取水量は余っているという。天竜川の余剰量を都田川利用分と代替すればいい。

そして、浜名湖に流してやればいいのである。

この50年間、開発のもとに全国の自然が姿を変えた。
浜名湖と同じく潮入湖であった霞ヶ浦は外海とを遮断する開発を行い、アオコの湖となった。
より外海の潮を入れ込み、生産高を上げるという開発をしたのが、わが浜名湖であった。
それを私は誇りにしていた。が、ボタンの掛け違いがあったのだ。
施政者は、誤りは正す...こういう姿勢であってほしい。

■付記

1人の老漁師が、今年を限りに廃業した。
アマモ帯の後退で漁が成り立たなくなったのだ。
先輩はいう。家庭排水でもなんでもいい、とにかく、
なんでもいいから淡水を湖内に注げ...魚を浜名湖から追ってしまわないことが先決...だと。